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蒲郡市を中心とする、いわゆる三河織物業界は江戸時代以来百余年にわたる古い伝統を誇っている。
三河のしろあしぎぬ」と持てはやされ、他の産地の織物より高値が付いた西暦750年代、町には「機織り唄」を唄う女工さんの美声が流れ、チャンカラ織がはやった明治時代、また「ガチャマン」なる呼称を受けた景気の最盛であった昭和20年代、構造的不況からの復興、知識的集約化を経て、商品開発や、21世紀の新しい取り組みに努める三河繊維産地の歴史が先覚者の偉業より現代に引き継がれている。





織物工場











織物工場

750年
三河国は貢ぎ物として絹白糸等を納めており、その絹は上質のものとして珍重された。天平勝宝2年(750年)の「正倉院文書」やその2年後の「雑物請用帳」によると、11ヵ国の貢絹があるがわざわざ「白絹布」と記してあり、精白な細糸で経糸・緯糸の密度の多い布で、他国の物より15%程は高く引き取られていた。


799年
幡豆郡天竺村(今の愛知県西尾市)の海岸に流れ着いた崑崙人(コンロン人)が助けてもらった恩返しに綿の種子と耕作の方法を伝えたと言われている。
それが次第に広がり、畑に綿を栽培して布を織る「三河木綿」の始まりとなる。


1864年

書物にこの頃、この地方で織った白木綿が岡崎、西尾方面に売られていた証拠が残っている。


1875年
三谷の(現蒲郡市三谷町)小田時蔵氏が自宅の2階を工場にして、20台の織機を据え付け近所の女子を集め始めた事が、蒲郡での織物業の始まりである。


1888年
東海道本線が蒲郡を通るようになり、全国に三河織物の名が知られるようになる。


1903年
織物協同組合ができ、製品の増加と品物の向上に努めた。
その後、輸出向けに絹紡交織、毛織物も作られる。


1927年
三河染織試験場ができ、検査、図案などの研究が続けられ、現在の基礎をつくる。


1935年
現在でも蒲郡織物の中枢である、三河織物同業組合事務所が新築される。


1951年
戦後、輸出が急増する。また衣類不足が続いたため、織物は飛ぶように売れる(ガチャマン景気)。


1952年
好景気をさかいに蒲郡の織物工場は激減し始める
しかし、この地方の織物工業は組織を作って、一つ一つの小さな力を大きな力とし、信頼される生産地としての名を上げようとしている。

  
1973年
それまで好景気だった繊維産業は、11月に起こったオイルショックの影響を受ける。


1982年
香港にて「ミカワテキスタイルフェア in 香港」を開催。
(以降、各国都市にて開催)

1984年
東京原宿にて「ミカワテキスタイルフェア in 原宿」を開催。
(〜1988年まで)

1993年
千葉幕張メッセ、東京ビッグサイトにて「ジャパンテックス」参加。
(〜2000年まで)

1998年〜
東京ビッグサイトにて「ジャパンクリエーション」参加。

三河繊維産地は、日本の繊維産地のトップランナーを目指している。



●三河のしろあしぎぬ【みかわのしろあしぎぬ】
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●機織り唄【はたおりうた】チャンカラ織機を操りながら女工さんがめいめいで唄っていたもので、今の蒲郡市中央部、銀座通り周辺「三匹」(経営者が三人だつたので、そのように呼んでいた)80人あまりの女工さんが唄う美声は蒲郡駅周辺まで聞こえていたそうだ。
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●貢ぎもの【みつぎもの】人民がおさめる穀物以外の物品の租税のこと。
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●絹白糸【きぬしらいと】絹(蚕の繭からとった繊維)で作った白い糸。
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●白絹【しろぎぬ】自生地の絹織物を総称していう。
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●絹紡交織【-----】--------
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